勝福寺と證誠神社の中間にあって、もとは陰堂(こもりどう)であったと考えられています。一般には子守神社と呼ばれており、赤ん坊の夜泣きを防ぐと信じられ、1907(明治40)年に旧大手村内の小祠(しょうし)を合祀した時、釿桐(おのきり)神社と名付けられました。阪神・淡路大震災により全壊しましたが、その後現地で建て替えられました。